オヤジ☆ブログ【シャブレ・ジブレ】 〈不定期更新 目標毎週1回!〉

絵:きよた 文:たなべ


スタジオ入るならカメラマンになってもらいたい!

 

 ホント、しみじみ思うようになりました。このスタジオを経てカメラマンになった人たちの存在が、僕を幸せな気持ちにさせてくれるということに。

 

 別に、スタジオのお客さまとして売上を落としていってくれるからというわけではありません。もちろん、それは有難いことですが、カメラマンとして生きているのなら、どこで何をやっていても構わないのです。

 

 スタジオ時代に僕自身がその方々に何を与えたわけではありません。ただ、人生のある時期、それぞれの将来像を胸に、縁あってこのスタジオに入られた方が、やがてその想いを実現する。身近に頑張っている姿を見ていた気心知れた仲間の活躍は、ただただ嬉しいものなのです。

 

 

 ところで先日、スタジオスタッフの面接に来られた方がいました。僕はその採用を泣く泣く見送りました。

 

 とてもいい人でした。やる気もありそうだし、考え方もしっかりしているように見受けられました。仮に彼が同業他社さんの採用面接を受けたら、ほとんどの撮影スタジオさんが採用に前向きになるだろうことは容易く予想できます。

 

 僕は面接中、他社さんに取られるくらいなら、僕のいるスタジオで採用してしまおうって気持ちを抑えつつ、このタイミングでの採用を見送りました。

 

 彼には「1年後にまた来てください。」と伝えて。

 

 

 せっかく僕のいるスタジオに入社するのなら、将来はカメラマンとなって活躍するようになってもらいたいのです。そのためには、このスタジオを踏み台に高く跳んでもらわなければなりません。

 

 思いっ切り高く跳んでもらうためには、しっかり踏み込む必要があります。そのためには、力強い助走が欠かせません。その意味で、失敗が許される撮影スタジオはうってつけの場所ですから。

 

 でも、どこに向かって跳ぶか、その方向は自分自身とその写真を掘り下げていくことでしか見えません。とりあえずスタジオに入って色々見れば、おのずと道が明けてくるなんてことは断じてないのです。

 

 

 だから、彼には、今以上に自分と自分の写真を深掘りしてから、この業界のスタートを切ったほうがいいと思ったのです。

 

 できることなら1年後、またお会いできることを楽しみにしています。

 

外苑スタジオ 田辺

 


人との出会いは気の持ちよう

 

 スポーツでも、エンタテインメントでも、科学の分野でも、何かで成功した方のインタビューでよく耳にするフレーズがあります。

 

 「周りの方々に支えられ、ここまでやってこられました。」とか、「人との出会いがなければ、今の自分はなかった」とか。

 

 ひねくれ者の僕は、それって謙遜とか処世術の類だと思っていました。だって、この手のセリフ、処世術でなく本心からだったら羨まし過ぎます。僕もそんな出会いに恵まれてみたいって本気で思ってしまいますから。

 

 

 だから、先日スタジオを卒業するスタッフと飲みに行った時、その彼女も同じようなことを言うのが僕には不思議でした。失礼な話ですが、どう見たって彼女の成功はまだこれからです。それでも、ニコニコしながら「ホント、私、人との出会いに恵まれてきました。」って語るのです。

 

 彼女はスタジオに来る前、あるフォトグラファーのアシスタントをやっていました。その師匠は、彼女が就くにあたりアシスタントの給与は払えないけど、その代わり私の部屋に住んでもいいと言ったのだそうです。で、スタジオに来る前の1年、彼女は師匠と一緒に師匠のワンルームマンションで暮らしていたそうです。

 

 僕は内心、思います。「給与払えないって何?」、「師匠と一緒にワンルームって…?」

 

 しかも、師匠の彼氏が家に遊びに来たときは、遠慮して外で時間をつぶしたり、気苦労ある生活を強いられていたそうです。流石の彼女も、今思えば師匠と同居していた間は体調が良くなかったといいます。

 

 それでも僕の目の前の彼女は、その頃師匠から学べたことが今に生きていると目をキラキラさせながら語るのです。

 

 

 そこまで聞いて、僕は気付きました。

 

 人との出会いって、それに感謝できるか、何とも思わないかは、その人自身の気の持ち方次第だってことに。感謝できないのは、相手が感謝に値しない人だからではなく、そう受け取ることができない自分自身の問題なのだと。

 

 そして冒頭の、成功してインタビューを受ける方々が口にするセリフ。それは、人との出会いに感謝できるほどの人だから、成功が身近な場所にあったのだと思うのです。

 

 考えてみたら、失礼な話です。「僕もそんな出会いに恵まれてみたい」って、てめえが見い出せなかっただけなのに、この半世紀ず~っと他人のせいにしてきたなんて。

 

 やっと気付けた恥さらし人生、衝撃の事実。

 

 僕はここだけの秘密にしておくことにしました。

 

 

 


採用面接における写真作品について

 

 写真作品持参で採用面接に来られる方がいます。皆さん、「作品のクオリティー」が「採用の是非」を大きく左右すると考え、見る側の反応をとても気にされます。

 

 僕はこのことに、以前から違和感を持っていました。実際、作品のクオリティー自体は採用の判断においてそれほど大きなファクターではありません。

 

 僕のいるスタジオに限ったことかもしれませんが、仮に写真が超絶上手かったとしても、それだけで採用させて頂くわけではありません。逆に、無茶苦茶下手っぴだから不採用ってわけでもないのです。

 

 

 では、採用面接では作品のどこを見るのか?

 

 それは、その方の写真へののめり込み度です。その方が今、写真の深化過程のどの段階にいるのかを見ています。まだ、シャッターを押して画像が写るのを楽しんでいる段階なのか。そこからちょっと進んで、撮る場所や撮るモノ、カメラや機材、撮り方、フォトショップにこだわる段階にあるのか。そして、試行錯誤しながらも自分の納得できる表現を目指し工夫する段階にいるのか。

 

 写真がまだシャッターを押して楽しんでいる段階にあるのなら、将来その人のセンスや趣向が仕事として成り立つかどうか、こちらには全く想像がつきません。だから、その人を採用させて頂くか否かは、お話しする中でとか、履歴書の中に探すことになります。

 

 それでも、作品を人に見せるってことはデリケートなことなので、それを乗り越えてこられた勇気にはプラス評価をしています。

 

 また、自分が表現したいイメージのために様々な準備や工夫を施し完成度を上げていく段階の人なら、写真の方向性もかなり絞られてきているでしょう。あとは、このスタジオがそれに応える環境を提供できるかという問題になります。

 

 

 もちろん、いずれ皆さんが写真で収入を得るようになるまでには、当然フォトグラファーとしてクライアントに高い仕事のクオリティーを提供できる術を持っていなければなりません。

 

 でも、僕の四半世紀に及ぶマネージャー歴の中には、面接時の持参作品は上手だったのに、考え方とか趣向が人々のニーズにマッチせずフェイドアウトしていった方がいました。逆に、写真はお世辞にも上手いとは言えなかったけど、その後の人との出会いや自身の努力によって、今ではバリバリ売れている人がいます。

 

 フォトグラファー(写真家・カメラマン)に限れば、「才能」は結果論に過ぎません。それよりも大切なことは、その結果に至るまでの「考え方」、物事の「捉え方」です。

 

 だから、外苑スタジオの採用面接の際は、そのクオリティーを気にすることなく作品をお持ち頂ければと思うのです。

 

 

 


それって今どき古くない?

 

 カメラマンのアシスタントさんから聞いた話です。撮影で、ある白ホリのスタジオに行った時のこと。その日スタジオを担当してくれたスタジオマンの方と話している中、話題はカメラマンアシスタントのことになったそうです。そこで、アシスタントさんが「スタジオ出たら、だれかにつくとか考えているの?」と話をふると、返ってきた答えは、

 

 「アシスタントすか。 それって、今どき古くないっすか?」

 

 アシスタントさんが呆れながらも、笑い話として教えてくれたネタです。そもそもアシスタントやっている方に向かって「古くないっすか?」って「頭のネジゆるくないっすか」って話です。

 

 でも、そう考える人って今どき珍しくないと聞きます。今の時代は、わざわざアシスタントなんかやらなくても、カメラマンになれると考える方が増えているそうです。まだ酸いも甘いもわからない学生さんならまだしも、撮影スタジオに勤める方にまで侵食しているアイデアというのですから正直驚きます。

 

 別にね、アシスタントを経ずカメラマンになる方は昔から一定数います。今になって増えたと思っている若い方がいるようですが、決してそういうわけではありません。

 

 では、なぜそのように思い込んでしまうのかといえば、インスタなどのSNSの影響であることは間違いありません。ごく一握りのアシスタント経験を必要としない才能の持ち主と、それ風を装いSNSをにぎわすたくさんの方により、そのような幻覚が出来ているのでしょう。

 

 

 もっとも、インスタなどのSNSが、フォトグラファーの営業のスタイルを変えたことは確かです。今は、僕のいる外苑スタジオのスタッフでも、インスタ経由で撮影依頼の仕事がくる時代です。

 

 その意味で、インスタとかのSNSって、自分の作品を不特定多数の人々に広めるためのツールとして、とても画期的なことは確かです。でも、それは、あくまでも多くの人に見てもらうための手段という意味においてです。

 

 インスタやSNSを駆使したところで、その作家の作品のクオリティーや、仕事への信頼性が上がるということにはなりません。もっと言えば、インスタが足りない才能を補完してくれるわけではない以上、才能の補填やその開花方法を得るには何かしらの手立てを講じる必要があるのです。

 

 それが自分でできるならそれでいいし、よくわからないなら師匠や他の力を借りればいいというだけのことなのです。

 

 

 冒頭のスタジオマンの方。僕はその方を存じ上げませんが、新しいとか古いとか言っているうちはその辺のところが見えていないってことです。自分一人で出来るタイプではありません。

 

 それでも、(きっと)若いんだから、自分を信じてその路線で突っ走っていくべきです。そこで初めて自分がどれだけ非力なのかを思い知り、地に足をつけた自分に目覚め、再スタートを切って大きく成功した人を僕は何人も知っています。

 

 今も、昔も。

 

 

 


画角と被写界深度

 人にはそれぞれの視野があり、各々の被写界深度があります。広くても狭くても、深くても浅くても、その人の見えているものがその人の全てなのです。視野の外にあるもの、意識のピントの合っていないものには、その存在すら意識することができません。

 

 

例えば親子編(表)

 

 例えば、16のあなたにカッコ良くて優しい彼氏ができたとします。その彼と一時も離れず一緒にいたくてたまらなかったとします。

 

 でも、あなたには、仕事ばかりで家のことにはまったく理解のないイラつく父親がいたとします。家に帰れば、その父親から偉そうに干渉されムカついていたとします。

 

 それでも、彼と一緒にいられさえすれば、その時間だけは永遠のように幸せだったとします。

 

 だから、ある日、家に帰って玄関に立っていた父親から頭ごなしに怒鳴られたとき、もうこんな家には帰りたくないと思い、彼の元に走ったとします。

 

 

 

例えば親子編(裏)

 

 例えば、あなたに16歳の娘がいるとします。最近その子の帰りが極端に遅くなるようになってきたとします。

 

 あなたが「こんな時間まで、どこで何をしていた?」と聞くと、「友達と一緒にいた」としか言いません。それ以上聞こうとすると、怒って自分の部屋に閉じこもってしまいます。

 

 それでも、日を増してその子の帰りは遅くなり、とうとう朝まで帰ってこない日があったとします。これは、親としてしっかり言わなければならないと考えたあなたは、帰ってきた娘にこれまで我慢していた感情をぶつけます。

 

 そして、娘は家を飛び出し、そのまま帰ってこなかったとします。

 

 

 

例えば師弟編(表)

 

 例えば、あなたは将来フォトグラファーになることを目指し、撮影スタジオに勤めていたとします。入社から2年が経ち、それなりに責任のあるポジションを任されるようになったとします。

 

 もちろん、仕事も一通りのことは難なくこなせるようになっていたとします。そこで次のステップを考え、スタジオを退社し、フォトグラファーのアシスタントに就いたとします。

 

 でも、そこでは毎日のように怒られ、仕事の出来ない自分はただただ情けなく、大変な日々を送っていたとします。近頃は、いっそのこと辞めてしまったらどれだけ楽だろうかという考えが頭をよぎるようになってきたとします。

 

 そしてある日、日々の忙しさで疲れは取れず、深夜まで続くレタッチで寝不足の中、いつまでも否定され続ける自分に限界がきたとします。

 

 

 

例えば師弟編(裏)

 

 例えば、あなたは仕事に追われる人気フォトグラファーだったとします。忙しいので、当然アシスタントを雇っていたとします。

 

 しかも、日々の仕事をこなすには、アシスタントにもそれなりのレベルを求めていたとします。だから、アシスタントにする人は、未経験者ではなく、スタジオ経験者に限っていたとします。

 

 そこで、撮影スタジオでの経験を持つという人を次のアシスタントに雇い入れたとします。でも、その人はスタジオに2年も居たという割に、ラフを見せてもそのイメージ通りのライトが作れないとします。

 

 本人は出来たつもりでいるようですが、いつも大きく手直しをしなければならないので、任せっきりにすることができません。さすがにテザーは一通りできるようですが、ちょっとトラブると、とんちんかんな対応しかできなかったとします。レタッチに関しては、そもそもビジュアルセンスが無いのか、何度もやり直させなければならなかったとします。

 

 それでも、来たばかりの頃に比べれば、少しはマシになってきたと思えるようになってきたある日、突然その人は来ず、連絡も取れなくなったとします。

 

 

 

親子の視野と被写界深度

 

 いくら父親が「お前のことを想うからこそ、言っているんだ。お前もそのうち、わかる時がくる。」と言ったって、人生のピントは目の前の彼氏にしかきていないのですから伝わるわけがありません。

 

 娘の被写界深度が深まり、父親にもピントが来るようになるまでには、もう少し人生の経験値が必要なのかもしれません。

 

 

 

師弟の視野と被写界深度

 

 師弟関係は、親子関係と立場が逆だということを理解しておかなければなりません。師匠が子供で、親がアシスタントと考えるべきなのです。

 

 子供(師匠)を理解すべく努めるべきは親(アシスタント)です。親(アシスタント)は常に子供(師匠)に寄り添い、見守らなくてはいけません。子供(師匠)の良い芽を伸ばし、自己肯定感をたくましいものにするためのサポートに徹するべきなのです。

 

 

 

総まとめ

 

 そうはいっても、親子関係も師弟関係も結論は一緒です。親は、子供から人生にかけがえのないものを与えられるのですから。

 

 スタジオマンの上っ面だけにピントを合わせ、画角の狭いレンズで覗いていたってダメ。カメラマンやそのクライアントが何を望み、どのような事情の中で何を求めているのか、親は日頃の忙しさにかまけず、それを理解し応えられるようにならなければなりません。

 

なんとなーくスタジオに居るだけなら、何年いたってダメなんです。

 

そこのスタジオマン、子供に寄り添える準備はOK?

 

 


フジのポラ

 

 この春に入社した新人スタッフの研修も、いよいよ追い込みの時期になってきました。でも、カリキュラムの一つ、映像・写真関連の用語が何人かのスタッフとどうも噛み合いません。聞けばみんなネタ元にキャノンの「写真用語集」サイトを利用しているとのこと。

 

https://ptl.imagegateway.net/contents/original/glossary/index.html

 

確認のため、そのサイトを覗いてみたらびっくり。

 

 

 ちょっと専門的な話ですが、レンズに入ってくる光のうち、写真を白っぽくモヤっとさせてしまうものには、「ハレーション」と「フレア」の2種類があると。僕は、今の今まで知りませんでした。

 

 しかも、「ハレーション」とはフィルムの構造上起きてしまう現象のことなので、デジカメでは起きえないとのこと。デジカメでも起きる白っぽいモヤっは、レンズの鏡胴内などでの余計な反射光による光カブリで、それは「フレア」というとのこと。

 

 業界歴30数年。初めて知った驚愕の事実。これって業界の常識だったのでしょうか?

 

 でも、ちょっと待って。

 

 それが正しいなら、撮影現場で言うところの「ハレ切り」って、切っているのは「ハレーション」ではなく、「フレア」ってことです。だったら、なぜ「フレ切り」と呼ばず「ハレ切り」と呼ばれているのか。

 

 でも、キャノンのような大企業のサイトがそんなに簡単に間違ったことを書くとは思えないし、やっぱり僕が間違っているのか?

 

 そう考えていて思い出したのが、フジのポラです。

 

 

 昔、フィルム全盛の頃、写っている画像を現場ですぐに確認する術の無かった時代。アメリカのポラロイド社から出たインスタントフィルムは、とても画期的な商品でした。「ポラ」という呼称がインスタントフィルムの代名詞として日本の写真業界に定着するのはごく自然な流れだったと思います。

 

 しかし、その後、後発のフジフィルムもインスタントフィルムを発売。フジフィルムのほうが発色良く格段にキレイで鮮明だったため、それまで独占市場だったポラロイドの「ポラ」を席巻。この業界では、その後も皆さんフジのインスタントフィルムを「ポラ」と呼んで使っていました。

 

 きっと、「ハレ切り」も同じ構図だったのではないかと考えます。

 

 映像も写真もフィルムしか無かった時代。今で言うところの「ハレーション」も「フレア」も、画面を白っぽくモヤっとさせてしまうものとして一言「ハレーション」と呼んでいた。撮影現場ではそれを画面効果として使用しない限り、鮮明さを失わせる邪魔な光なので、それを切る方法が発達。それが「ハレ切り」と呼ばれた。

 

 でも、時代が変わりデジカメが出てくる。カメラメーカーは、消費者に対し、それまで誰もが持っていたフィルムカメラをデジタルカメラに買い替えさせるため、積極的にデジカメの優位性を宣伝する。デジカメはこれまでのフィルムカメラと違い、「ハレーション」がありません。モヤっとしちゃうのは「フレア」です、と。で、ハレ切りはフレアを切っていたってことが明らかになった。

 

 

まーいずれにせよ、これからは正しい名前を使うべきだなんて言うつもりはありません。僕のいるスタジオでは、これからもこの「フレア切り」のことを「ハレ切り」と呼んでいくつもりです。もちろん、新人スタッフにはこの辺の事情を説明した上でですけど。

 

でも、どうせ間違っているんだし、英語がネイティブな人が入社してきたら「ハラ切り」って教えたら面白いかな~なんて良からぬ考えが頭に浮かんでいるのはここだけの秘密です。