努力は誰のためか

 昔から不思議なことがあります。人が本当に努力できるのは誰のためかという問題です。

 

 

 僕は子供の頃、親から「いい大学に行って、いい会社に勤めてお金に困らない生活を送れるようになるために、ちゃんと勉強しなさい。」と言われて育った気がします。でも、勉強なんかしなかったので、「やる気のないダメな子」というレッテルを貼られていたと思います。

 

 そして今、おっさんになった僕は、カメラマンを目指すスタジオのスタッフに「カメラマンに成りたいなら、〇〇をやっておくべき。」とか、「これじゃー、カメラマンになんかなれっこない」とどやしつけています。その度に、スタッフのほとんどは「そうですよね~。」と同意するフリをしますが、結局その通りにやった試しがありません。

 

 

 

 

 なかには、僕が言わずとも一人で努力できる人がいますし、そういった人は間違いなく当初からの理想を実現しますが、あくまでもごく少数です。ほとんどのスタッフは、わかっちゃいるけど、、、子供の頃の勉強しない僕と同じく、体が動いてくれないのでどうしようもない状態なのです。

 

 ただ、やる気はあるのに上手く噛み合えず、なかなか周りの評価がついてこないスタッフの中には、まれに瞬間的に変貌を遂げる人がいます。瞬間と言っても、数週間から数か月間、その間に著しく成長し頼もしい存在へと大きく変わってゆくのです。

 

 

 

 

 しかも、その間はそのスタッフが撮る写真までが変わるから不思議です。何か写真からエネルギーが満ち溢れ、それまで覆っていた紗が取れたように画が明るくなるのです。

 

 何人ものスタッフの変貌を見てきましたが、そのきっかけはいつも一緒です。

 

 カメラマンさんやクライアントさんからたまに来る、ご要望通りにやるのが正直難しいご依頼案件です。物理的にも、時間的にも、その他様々な条件を鑑みても、困難そうなので普段なら丁重にお断りするようなことをスタッフに任せてみたことから始まります。

 

 そのスタッフは、ただ依頼してくださった方の気持ちに応えるために、周りから見れば「何もそこまでやらなくてもいいんじゃない?」というほど頑張ります。自分の知識や技術では対応しきれないことは他の出来る人を巻き込み、依頼された方の期待に応えるのです。

 

 

 

 

 もちろん、依頼された方はそこまでしてくれたことに喜び、これまで以上に期待を込めて、もっと難しい難題を任せて頂けるようになります。スタッフはそれすらも応えるために、自分の負える責任を超えるような判断は上司や先輩を説き伏せ、力づくで期待に応えます。

 

 それが、努力が現実に噛み合う瞬間です。スタッフはこのやり取りを経て一回りも二回りも成長します。

 

 人って不思議です。子供のころから自分のために努力をしなくてはダメだと言われてきました。でも、できませんでした。

 

 それなのに、相手のために自分が役立てる実感が得られるのなら、人は無理して頑張れるものなのです。そして、その成功体験が、それからのその人の人生を大きく変えていくのです。

 

 

 

 

 誰もが最初はお荷物です。だから、お荷物の状態を脱して、人の役に立つべく名乗り出られるようになれるまでは、精進あるのみ。

 

 見返りを求めるのではなく、人に必要とされることに喜びを見出し、精魂を尽くせば、あふれんばかりの見返りは、必ず後からついてきます。有史以来、人が死に絶えることなく歴史が続いてきたのは、人生捨てたもんじゃないからだと思うのです。