空気は読むな

 

 この国特有の閉そく感というのがあるそうです。僕は日本に住み続けているのでよくわかりませんが、スタジオのOBやOGには、日本が色々と住み辛いという理由で、海外に行ったっきり帰ってこない人が何人もいます。

 

 

 その場の空気を読むことを求められ、人の顔色を察知し、人に合わせ、本音は隠し、自分をないがしろにしつつ生きることを求められるのが日本。それに比べれば、少なくともNYやロンドンやベルリンは自由で生きていきやすいそうです。

 

 僕のいるスタジオではスタッフが空気を読むことでダメになっていく時があります。それに気付いたのは先日、スタッフに何か仕事をお願いしたときのこと。作業完了後、いつもなら「田辺さん、こんなんでいいっすか?」と確認を求めてくる人が、その日は「すみません、田辺さん。こちらでよろしいでしょうか?」と妙によそよそしい敬語を使うのです。僕はピンときました。その前日、別の案件で僕は彼を強めに注意・叱責したのです。そのせいで、「なんだかわからないけど、このオッサン怖いからへりくだって、崇め奉っておこ。」って思ったのか。それとも、「このオッサンに噛みつかれるのウザいから、敬うフリして距離おいとこ」ってことなのか。いずれにせよ、このような反応をするのは彼に限らず日本人スタッフの特徴です。

 

 

 よそよそしい態度を取るくらいなら、注意した案件について、自分が納得いくまで聞いてきて欲しいです。自分は間違っていないと思うなら、堂々とそれを主張してきて欲しい。僕が知る限り、日本語がネイティブではない方の多くはごく自然に議論を持ちかけてきます。その結果、納得すれば素直にそれを受け入れてくれます。それに比べると、日本人は議論自体が悪いこととでも思っているかのようです。

 

 別に相手を言い負かすためのディベートに挑めというわけではありません。お互いが持っている情報を並べ合わせ、どちらの洞察の方が正しいかを判断するために納得いくまで議論して欲しいのです。自分の洞察が浅かったり間違っていれば、より深く正しいことを知り次に活かせるというメリットがあります。もちろん、僕が間違っていれば、謝罪した上で僕が考えを改めます。当たり前ですが、議論のあとは何の後腐れもありません。

 

 

 サムライの国というインバウンド向けイメージはさておき、この国の国民の大多数は元々お百姓さんだったわけです。そのお百姓さんが村八分にならないために必要だったのが、空気を読み、議論をせず、ただただ上の者に従うということだったのではないでしょうか。

 

 今の時代、村のみんなで協力して耕す田んぼも畑も無いわけですし、忖度すべき地主さまもお代官様もいないわけです。だったら、空気読むのなんてやめちゃえばいいのにと思います。

 

 もっとも、それすら周りを見て、みんながどうするか様子を見てから自分がどうするか決めるって人が大多数でしょうから、この国から空気を読むことが無くなることはないのでしょうけど。